1.私はなぜ写真を撮るのか?
もっと一般化して大きくいうなら「人はなぜ写真を撮るのか?」ということになる。それなりにカメラを手にして写真をいくらか撮っている人間であれば、多かれ少なかれこのような疑問に突き当たることがあるだろう。はじめに書いておくと、このような根源的な疑問には正確な答えなど存在しない。
そもそも写真を撮ることに理由などはいらないと考える。あらゆる事柄に理由を求めるのはときとして滑稽だ。「好きだから」という理由しか思い浮かばないのは決して思考停止でもエポケーでもない。写真を撮る理由も、人を愛する理由も、自分が生きる理由も、理屈では語れない部分に大きく依存しているものだ。
「好きだから 告白するように 好きですと ただただシャッターを切りたい」
そんな感性に身を任せて撮っているときこそが素晴らしい。今日と明日とこれからの毎日、目が覚めてまず写真を撮りたいと思えたら、その人はもう写真家だとも思う。そしてそれが全ての出発点だ。しかしそれをまた超えていくことも必要と感じる。
写真を撮ろうとしたきっかけ
私が写真を撮ろうとしたきっかけは、二十歳くらいのころ、ラジオで流れていた問いかけを聞いてからである。その問いかけは写真とはまったく関係ないものではあったが以下のようなものだった。
「あなたのコーヒーの色は何色?」
ラジオはさまざまな人の答えを話していた。もううろ覚えだが雀の頭の色だとか、樹木の色だとか、コーヒーの色だとか。そこで私は何だろうと考えたとき、苦くてときとして甘いコーヒーは、人生の色だと思ったのだ。
人生の色 / COLOR OF LIFE
そしてこの言葉を獲得した瞬間に、私の目の前の光景が文字通り一変した。誇張するでもなく、普段、通る何気ない道も、木々も、何もかもが輝きだしたのだ。獲得した瞬間の昂揚、それは本当に一瞬のことだったかも知れないが、脳内に鮮烈に焼き付き、この素晴らしい輝く世界を、美しい世界を、写真におさめたいという衝動へとつながったのだと考える。
であるから仮に「なぜ写真を撮るのか?」ではなく、「なぜ写真を撮ろうとしたのか?」という疑問に置き換えるなら、私の場合の答えはすなわちこれである。
2.現実と写真との差異の狭間で
この美しい光景をただ写真におさめたい。そういう純粋な動機ではじめてはみたものの、実際に目で見た現実と、撮った写真とのなんともいえない差異というか違和感に苛まれることもある。
それは私の技術が不足しているか、感性が欠けているか、機材の性能が追いついていないか、その他ものもろあるだろうが、そこで改めて気づかされることは、決して写真は、真実を写していないということだ。そしてまた付け加えるのであれば、写真は虚偽を写してもいないということだ。つまり
真実でも虚偽でもない世界に私は突き落とされてしまった
なんとも中二病患者的な表現ではあるが、私の言語的な趣向なのでご容赦頂きたい。とどのつまり真実とはこの現実でしかない、そして虚偽はこの現実ではないということになってしまうが、逆転の発想でポジティブに考えるなら、写真というものは真実と虚偽の架け橋にもなりえるということだ。そしてそこにこそ私という存在が介入することのできる、表現への手法となりえる場所があるのではないか。
あらゆる構図、被写界深度、シャッタースピードを駆使することで生まれてくる、実際に見えるものとは少し違うファインダー越しの世界と、そして出てくる写真に私は虜になった。コンパクトデジタルカメラから、APS-Cデジタル一眼レフ、フルサイズデジタル一眼レフと、予定調和的な段階を上がって行く過程で、あるとき
写真の方が私が見ている現実を超えたと感じた
目で見るよりもよく撮れるような気さえしてきた。そのとき最も輝いた一瞬の美しさが永遠となるような。そしてその光景を、私が実際に体験しているという事実が、相互に補強し合うことで、写真と現実が、まるで何かに塗り替えられたような記憶を呼び覚ます。そんな奇妙なスパイラルを描く構造。そしていつしかそれが私の現実となっていた。
眼前に美しい光景が現れる度に、カメラを持っていないことを嘆く
「虹が出ているよ!見に行こうよ」「いや、今カメラ持ってないし」当たり前のようにそんな会話をしてしまう。「カメラ持ってなくたって見れるよ」と、いわれてハッとする。
記憶に焼き付けることと、写真に焼き付けること。この二つは両立しうるのだろうか。ある研究によると、写真を撮ることで実際の記憶が薄れる可能性があるようだが、また逆に写真を撮ることで記憶を補強する役割もある筈だから真偽は判らない。
それにしてもはじめからカメラを構えて、始終ファインダーを覗いているのはどうかと思うのだ。過程として正しいと感じるのは
- 偶然であれ必然であれ、美しいと感じる光景に遭遇する
- 美しいと感じて、写真を撮りたいという欲求が生まれる。
- ファインダーを覗き、シャッターを切る。
この中で最も大切だと感じるのが2である。美しいと感じること。経験として、体験として記憶に焼き付ける工程だ。そして2と3は容易には両立し得ない。ファインダーを覗いた瞬間、そこはもう現実とは少し違う次元なのだ。2.5次元的な世界。ファインダーを覗いたときにその次元を超越すること。4次元的な世界をとらえられるようになればと希う。
もう一つの次元としては時間軸であろうか。都会の街。雑踏の中。私がファインダーを覗くとき。この繁栄した風景がいつしか、廃墟となることを哀れみながらシャッターを切ることがあるが、今思い返せばそれは時間軸を意識できたファインダーの覗き方なのかもしれない。
私はただファインダーを覗いているだけの盲目的なケモノではない。時間の中でうつろいながら存在しているのだ。私は私であることを忘れてはならない。人間は人間であることを忘れてはならない。ハイデガーの人間とは根源的には時間的存在であるということが少し理解できた気がした。
やや蛇足になるが、カメラなんて持っていない一般のカップルたちが、花火大会やイルミネーションをみている姿を見ると、そういう方が幸せな気がすることもある。しかしファインダーを覗くことで何かのスイッチが入り、無我夢中になれることも幸せなのだと信じたい。夢中になれることにもはや真実か虚偽かなどは関係ない。これが私の物語であり、生き様なのだ。
3.写真の中心で愛を叫んだ私
写真が好きだ。もはやこの美しい世界が好きだったということさえ忘れて、些か本末転倒的に写真が好きだ。でもまてよ、私はそもそもこの世界が好きだ。好きなんだ。好きだと信じたい。しかしそういう気持ちで撮った写真には、「私」がうるさく介入しているような絵になってしまっているようだ。
そもそも世界側は私のことをどう思っているのか?
そもそも世界側は私のことをどう思っているのか?そんな世界を擬人化しても仕方ないかも知れないが、大事なことだから二回言いました。ここでやや哲学的な問題になるが、<私がいるから世界があるのか?>と<世界があるから私がいるのか?>という、卵が先か鶏が先かとは少し違う命題がある。
絶望的な答えとしては、私がいなくても世界はあって、世界がなかったら私はいない、という身もふたもない無神論者の答えになるのだが、何が言いたいのかといえば、要するに私は
世界に片想いしているだけだった
ということなのだ。どんなに素晴らしく美しいと思いシャッターを切ったところで、それが何だというのだ?何の為に写真を撮っているのか?極めて実用的な視点で鑑みれば、人間の脳は記憶を蓄えられるが、それを出力し共感してもらうには、絵や写真という手法を用いるしかない。
ただそれだけのことだった筈なのに、いつの間にか思い上がり、写真を撮ることで世界を表現し、またあわよくばその世界と結託して、この世界の構造自体にすら変革を齎そうなどという大それた(以下略
世界は私には圧倒的に無関心
そのことをまず念頭に置いて、写真というものに真摯に向き合わなければならない。太陽が輝いてくれるのはなにも私を祝福してくれているからでもない。空に虹が架かるのは私を喜ばせたり驚かせるためでもない。私がくたばろうが、何をしようが、そのときの空は青いかも知れないし、曇っているかも知れない。
だからこそ、だからこそ、私は写真を撮るのだ。いつか世界がほほえんでくれると信じて、などと思ってみても、無情なまでに花は枯れて、空は曇り、雨が降り、また仕事をしているときには皮肉にもあっけらかんと青空を展開する。
そもそも私は何が撮りたいんだろう?綺麗な花が咲いていて、それを美しいと感じて、写真に撮って、ああ、綺麗だねと感じて満足しているだけじゃないのか。花が咲いたら花を撮り、花が枯れたらその枯れた花を撮ればいいじゃないか。被写体を選んで贅沢になっていないだろうか。
何気ない光景すら輝いていたあのころはどうなったんだろう。最高に美しい場所を見つけて、そこに行ってただ美しい写真を撮ることの意味とはなんだろう。ただ私自身が世界にほほえまれていると錯覚したいだけじゃないのだろうか。
それではまだ私は世界と決別できていない。世界は私に決して告白してはこないが、また私に絶縁を求めてくることもないのだ。写真というものを、ただ確認するだけの作業にしてはならない。であるからこそ、私が世界と決別する必要があった。けれどその先に見えてくる光景を私はまだ知らない。しかしだからこそ、そのまだ見ぬ光景こそを、写真に撮る価値があるのではないかと考える。
編集後記
今回は長くなったので、以上である。久々に長々と文章を書いたので読みにくい点はご容赦頂きたい。考察ということなので、なるべく一般化するように心がけたが、あくまで私個人の考えである。少しでもこれからのよりよいカメラライフと写真ライフの糸口になれば幸いだ。まだまだ考えが足りない部分や書き足りない感があるので、定期的に追加して行ければよいと思う。
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