と、ときおりふと思うことがある。たとえばこないだの日曜日、私はひとりで身延山に行ってきた。富士山が綺麗だと思いシャッターを無心で切った。でもそのことにどんな意味があるのだろう。<私が富士山を見た>という証を残すためなのか、それとも美しい富士山の光景を写真に収めて、<皆に伝えたい>という気持ちからなのか、どれも違う気がするし、どれも正解な気がして、考えれば考えるほどよくわからなくなってくる。
そもそも私がその場所に行き富士山を見る必然性があったのか、それが私の人生の一部になる意味があったのか、ひとりで行って思い出になったとしても、なんだかもの悲しい気がしてきて、でもまたその気持ちも大切な気もするし、いつもはカメラ仲間と一緒に行くことが多いけど、ひとりで写真撮影に行くと徒に考えてしまう。
綺麗だなと思って、楽しい気持ちで、カメラを構えて、好きな光景を写真に収める。それだけでいいはずなのに、それだけではもう物足りない。綺麗だなとか、美しいなと思うだけでは動機づけとしては希薄で、不純な気さえしてきてしまう。そして楽しい気持ちだけではなく、悲しい気持ちも抱えながらでないと表現の幅が広がらない気がするし、そもそも気持ちなどは眼前の光景に本質的には影響しないわけで、無意味な気もするのだ。カメラを構えることでそれはバーチャルリアリティ的な二次的世界に陥落し、真の経験として記憶に残らない気もする。好きな光景を写真に収めることの意味がそもそもわからなくなってくる。
私は写真が好きなはずだ!カメラが好きなはずだ!とツァラトゥストラ宛らに心の中で叫ぼうとも、そういう疑念がよぎるようになる。カメラを冗談交じりに車の助手席に乗せて、彼女だなどと自嘲するのは、何かの代償行為のような気さえしてくる。
「本当にカメラでなくてはだめなのか?」
情熱は冷めやすく、ときとして移り気で、それでいていつまでも燻り続けて私に内在し続ける。その気持ちにこたえてくれる相棒として。<写真が撮りたい>というのが一番目の動機でもいいはずだ。写真が撮りたいから、富士山を見に行く、そのために車に乗って、家から外に出る、はじめに戻ればカメラを買う、レンズを買う。富士山の写真?そんなものは書店でも、インターネットにでもいくらでも転がっている。それはそれは素晴らしい、私などでは到底、撮ることのできないような、苦労の垣間見える写真たちがだ!
それでも私自身が富士山の写真を撮る意味は何なのだろうか。別に賞を取るためだとか、売り物にするためだとか、ツイッターでふぁぼられるためだとか、500pxで外国人にfantastic!と言われるためとか、そんなつまらないものではないはずだ。否、それもまた重要な要素のひとつではあるが。その答えを探し求めるためだとかいうカッコいいものでもないし、そこに富士山があるからだとかいうエピゴーネン的な言い回しでもない。
それでも誰も撮ったことのないような写真が撮りたい。目が覚めるようなドキドキする奇跡のような写真を撮りたい。この世界ではないような世界を発見したい。そういうセンスを磨いていきたいと切に想う。ドライに考えればカメラは新たな光景や対象に出会うための道具に過ぎない。出会うことのできた瞬間、光、色などを記録する高額もとい光学装置にすぎない。けれどそれでも、いつ出会うことができるかもわからない光景を夢見て、私は明日からもまたカメラを構えよう。とある日、とある場所で、とある光景に、とある人に出会うために。
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